10 天気予報の名誉回復

先日、天気予報について書いて、

恰も天気予報がけしからんというニュアンスがあったんでないかと危惧し、

天気予報の(わたしの勝手な)名誉回復のために書き足す。

 

昔と較べたら本当に天気予報の精度は上がったと実感する。

かつて天気予報は、あてにならないものの代名詞であったし、

予期せぬ天気がやってくるから世の中はおもしろかったりした。

今はそうでもないよ。

それはもちろん、天気予報に携わる人々が一生懸命精度の向上を目指しているからに違いない。多大な人々の専門の最高の頭脳が集結して、多大な時間と経験と努力によって、天気予報は着実に精度を上げているのだ。

 

でもね、だいぶ前に新聞の投書欄でこんな意見を見た。

わたくしの記憶によれば40か50の結構いい歳した、教員だったか教育関係者だったかの公務員の意見だった。違ってたらごめん。

 

最近はいろいろなところから天気予報が出されていて、異なる予報が出ている。行事の中止や敢行を決めるのに、どれを見ていいのかわからない。違う予報を見ている人から不信感を持った問い合わせもくる。行事なんかをとりまとめて進めていくのがどんなに大変か。困る。昔のようにひとつにならんか。

 

おふざけになっているのか。

天気予報がひとつだろうが100だろうが、真実の天気はひと通り。予報で動く訳でもない。

たくさんの天気予報があるということは、それだけ予報が難しいということ。精度がぐっと上がれば自然にひとつの予報になるでしょ。さまざまな見解があって複数の予報が生じている過程において、それを一元化するのは、100の宝物の99を捨てろと言っているのと同じ。

予報をひとつにしたかったら、自分で選んで決めればいいことだ。

いくつもあってまったく困っちまうよ、と愚痴を言っている分には笑っていられるが、新聞に投書しちゃうって、おっさんまじかよ。とわたくしは思った。

 

わたし確か「だから学校ってとこはさあ」と感じたから、記憶が正しく学校側に従事する人が書いたとして、彼が真剣に天気予報ひとつにしろと思って書いたとして、

やっぱ学校って危険。

とわたしは思った。

 

まあ記憶が違っていたら申し訳ないが、いずれにせよ、

真実はどうであれ、ことを進めるために、そしてそれに関係する人々から苦情を言われないために、ひいては自分の行いを良く評価されるために、見失ってしまってはいけない大事な本質を無視したり台無しにしていく、

それが今学校で起こっている最も危惧すべき現状だとわたしは考えている。