19 遠野物語

息子のクラスでガラス製品を誰かが誤って落として壊したそうな。

ひとりの生徒が箒かなんか持ってきて壊れたものをかき集め、

もうひとりが(これが息子)ガムテープを持ってきて床などペタペタしてガラスの破片を除いたのだそうな。

すると担任がやって来て、

「なんて寂しい。このような時には32人全員がその場に集まって協力すべきではないか。全員が集まってみんなで助け合う光景は、温かい光景だと思わないか?」

と息子に問うたそうな。息子答えて曰く、

「暑苦しい光景だと思います」。

 

 

こういう話がいっぱいあってさ、どうでもよくなっちゃうけど

集めてみるとやっぱりここの学校はおかしい気がするんだよね。

説明や感想をつけながら書くのも面倒。一応書くだけ書いたら

なんか遠野物語みたいだった。

遠野物語形式を採用してブログの更新を図ろう、と決意するのであった。

 

(もちろん、遠野がおかしな地域だと言っている訳ではありません、

柳田國男先生に誓って)

18 ホリエモンの本を読んだ

最初、わたくしは思っていた。

 

厳しい教師がいる。生徒を罵り倒す、体罰をする、炎天下を吐いても走らせる。

心が壊れてしまった子もいる。

それはいかんだろ。

 

声を上げれば本人も思い至るだろう。学校や教育委員会という体制も気づくだろう。

考え直すだろう。

厳しい指導をやめるだろう。簡単なことさ。

 

しかしそれは大きな誤りだった。

誰もそれを「いかんだろ」と思わなかったのだ。

なんで? なんで? なんで思わないの?

とわたくしは行きあぐねてしまったのである。

 

で、本を読んだりしたんですわ。

いくつか読んで大変に勉強になりました、この問題はそんなに簡単じゃないということがよくわかりました。

それについてはきっと少しずつ書いていくことになると思います。

 

それで今回は、最近、堀江貴文氏の『すべての教育は「洗脳」である』ってのを読んだのでその本について少し。

 

そも学校というものは、産業革命時のイギリスが、過酷な工場での労働から子どもの命を守るためと、工場での有用な労働力を育成するために作ったんだそうな。

そうか、産業革命か。イギリスからなのか。

ま、日本の藩校とか寺子屋なんてのも、産業革命こそなかったけれど社会の成立に必要な人材を育てるのが目的だったに違いない。そう考えれば現代の学校だって目的は同じ筈。

とにかく、堀江氏は

……なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとするのか? その常識によってどんな人間を育てようとしているのか?

一言でいえば、従順な家畜である。…

……今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、「常識」をせっせと教え込まれているのである。……

などと書いている。

ぶっ飛んでるとか極端だとかの表現は使いたくない(だって基準が固定されているよね、それ)けど、わたしはちょっと違和感をおぼえるんだ。

 

確かにそうかもしれない。ほんとにそんな感じだよ。

だけどね、学校とか教師は、露ほどもそう思っていないんだよね。自分たちのやっていることを。

機械じゃなくって人間が、露ほども思わず意図せず、なんでそんな教育をしちゃうの。それはおそらく彼らもまたそのような教育を受けてきたから。

彼らは人間だ。そこんとこもうちょっと、何とかならんの。

と、わたくしは思っているのである。(ま、堀江氏はそんな学校はとっとと見限れとおっしゃるが。)

教育は洗脳だ、とはある面その通りだと思います。それでわたしはなぜみんなが「いかんだろ」と思わないことを、強く「いかんだろ」と感じるかと考えるに、わたしはそのようなことを「いかんだろ」と感じるように、まさに洗脳されたからかもしれない。

堀江氏は自分が中学の時欠伸しただけで殴られたエピソードを書いてたけど、わたしなんて小学1年生の時の先生に強烈に、「人と同じで安心するな」「形式にとらわれるな」「自由になれ」「既成概念に惑わされるな」「世間の価値基準ほどあてにならんものはないぞ」みたいなことを徹底的に刷り込まれたもんね。その後もたまたま、わりと「みんなと一緒になって互いを高め合おう」的な発想のない教師ばかりに当たったと思う。

教師だっていろんな人がいるんだよ。

きっとわたしと同じく「それはいかんだろ」と思う人だっている筈だ。今は違っても、いつか「ひょっとしてこれって変」と思い始める人だっている筈。

 

もうちょっと何とかならんの。とあがいている次第であります。

 

『すべての教育は「洗脳」である』、なかなかおもしろい本でした。

前半部分の、学校というものに対する堀江氏の定義づけに関しては、特に教師には読んでほしいものだ。

 

わたくしが一番教えられたのは 、

ピコ太郎って小坂大魔王だったんだ!

という一事でした。

知らなかったよ、教えてくれてありがとうホリエモン

17 緊急学年集会

中学三年生になった息子から聞いた、

学校で最近開かれた「緊急学年集会」は次の3回。

 

1.廊下に唾が吐かれていた。(息子曰く、あそこって下の学年の可能性もある場所なんだけどな)

→いえいえ、学年がどうというより、それって本当に唾なの? 水じゃないの? 花粉症の時期だし鼻水じゃないの? あんたたちまだまだガキだからふざけてじゃれ合ったりして涎つい垂らしたりしない? なんで吐き捨てられた唾だとわかったの?

 

2.掲示物の人物写真の体の部分に画鋲が刺さっていた。

 

3.廊下にガムの包み紙が落ちていた。

 

で、緊急に学年全体300名近くが招集されて説教をくらうのだそうだ。

「ほんの一部の奴らのせいでみんなの努力が水の泡だ」という例の説教。わたしも子どもの頃からさんざん聞かされてきた説教。

すなわち、はみ出た者を全体が許すなと刷り込む作業が、教師達の手によりせっせと行われている訳である。

招集の理由は、どう見ても言いがかりでしょ。何歩か譲ってみても、300人全員を招集する必要はないでしょ。担任がホームルームの時間に「こういうのはいかんなあ、やめてね」と言えば済むことでしょ。

 

こういう話を人に話すとまず、

「その学校荒れてるの?」

と聞かれます。

 

全然荒れてません。

生徒は羊の如く従順だ。よその中学の十倍荒れてない。

煙草吸った飲酒したと噂にのぼる生徒は、外見から他の生徒と区別することはできず、笑顔が素敵♡受け答えもしっかりできる好青年である。

 

16 日々の生活

いかん。

すっかり間が空いてしまった。

前にも述べた通り、なかなか辛かった。

つまり空回り感が強すぎて。

 

しかし佇んでいる訳にもいかんと思い、

だいたい物事は刻々と様々な様相を呈しているのに

何とか順を追おうとしているのがいかん。

なんでもいいから書いていこう。あとから番号ふりゃいいんじゃね、など考える。

 

どうもこのブログというやつ、どうやったら見やすくなるのかわからぬ。

まあいいや、その辺はあとで考えよう。

 

辛いのもあるけど、わたしだって生活があるもんね。

学校のことを書こうとしていますが、息子は次から次へとそれなりな問題を起こす。

それは中学生のいるどこの家庭でも抱える程度の問題かとも思うが、例えば朝なかなか起きないとか部活をサボったとか勉強しないとか成績ボロボロとか、嘘ついて遊びに行ったとか何事にも不熱心であるとかさまざまです。

でも、朝練に遅刻しそうに家を出る息子にひとこと、「お茶は?」と声をかけたら(麦茶は冷蔵庫につくってある)、わざわざ玄関から引き返して来て

「持ってったほうがいいの?」

とわたしに質問してきた日には、内心「学校のせいだ」と思っちゃうね。

お茶なんて持って行っても行かなくても、大した問題じゃないだろ。いいも悪いもないし、あったりなかったりして困るのは自分なんだから、即自分で判断してくれ。

たぶんわたしが「持って行け」と言えば彼は心置きなく悩むことなく持って行けるのだろう。いわゆる指示待ち人間だ。

そんな息子に育てた覚えはない。

これはわたくしにとって、宿題をやらないから通知表の評価が低いという事象より、ずっと深刻な彼の抱える問題である。わけのわかんない「いい」「悪い」をがんがん押しつける学校のせいなんじゃないの、と思えてしまうのだ。

 

わたくし自身の体調がすぐれず、先日救急車に乗るという騒ぎも起こしてしまったし。

働いて家のこともやってお金と睡眠時間が慢性的に足りないという母子家庭的日々の生活にも、もちろん追われているし。

ともあれ、のんきにブログなんて書いてられないような日々の生活があって、やっぱりそちらのほうが優先なのですわ。

 

だから細かいことは考えずに、日々の生活のなかでちょこちょこ何でも少しずつ書いていこうと思います。

15 体罰

まあこの後は、学校からも教育委員会からも、まるでシャキッとした反応がないので書き続けるのが辛くって、

つらいって心が痛む、怒りで目が眩む、などのことではない。

だらだらしちゃって、何だか曖昧になってきて、気持ちがだんだん薄れていって、考えるのも書くのも億劫になっていく辛さよ。

黙殺するってこうやってなかったことになる戦法なのね、とよくわかる。戦法なんだから負ける訳にはいかないんだけど、最も注目すべき点は相手は戦法だという意識がないというとこね。

無意識にこういう行動に出るのはこの地方の特徴です。これは言い切りたい。でもそれについてはのちに書くとしよう。

 

とにかく辛い日々をだらだらと過ごすなかにも、息子が通っている学校のことなので少しずついろんな情報が入ってくる訳ですよ。ちょっとしたことがあったわ。

 

「リンチ、リンチ。酷いよ。教室の端まで吹っ飛んだっていうもの」

とは、「リンチ」を受けた生徒の保護者の方から聞いた言葉。

息子の部活の顧問は生徒指導の教師でもあり、部活とは別の煙草を吸った生徒に対して朝から夕方まで他の子どもたちとは違う部屋に隔離して「指導」をしたという情報でした。「指導」の内容は暴力に満ちたものであり、恫喝、平手や足蹴り、胸ぐらをつかんで机の上に仰向けに何度も叩きつける、というものでした。

驚かないよ。いかにもありそうな話だ。だからわたしがその件について訊いた時に学校側だって驚いてなかった。

 

でもさあ、一体いつの時代よ。どこの国よ。

のちにテレビで「学校における体罰」に関する番組をやってたから息子と観てみたとき、「授業中寝ている生徒の肩を揺さぶって起こしたら体罰です」「揺さぶったらやっぱりちょっとやり過ぎ」「えーっ、それで体罰って言われたら先生何にもできないよ」「親がおかしい」などみんなが眉をひそめて意見を言い合ってたので、

われわれ親子は顔を見合わせて、

「一体いつの時代のどこの国の話なんだ?」

つまらんテレビだ、とチャンネルを変えたよ。少なくともわれわれが現在生きている場所と、テレビの世界は全く違うらしい。テレビ局は世の現状を隠すために故意に現実を曲げて人心を操作しているのかもしれない。国がやっているのか。いや宇宙人の陰謀に違いない。

「世の中おかしいよ」などと息巻いていた能天気なタレントに詰め寄りたい、お前地球制覇に利用されてるのわかってんの?

 

ともあれ、いくら驚かなくってもわたくしは、これを黙って傍観する訳にはいかないのだよ。

 

14 転校した子

えっと、どこからだ。顧問が部活をボイコットして部員全体で謝らせたとこだ。

 

わたくしが校長に抗議をしたのち、結局何の返事ももらえなかった。

わたしひとりにも、保護者全体にも、説明はなかった。

もちろん、顧問が生徒にも保護者にも謝罪することはなかった。

 

ふと思い出したことがある。

中学に入学するときに、バスケット部に入るなら顧問はあの先生で、あの先生は要注意だよ、と教えてくれた人がいたのだ。

何が要注意だったのか、確かめておこうと連絡をつけましたのよ。

 

・とにかく強烈で、何か気に入らないことがあると生徒を罵り始める。けちょんけちょんに言う。特に強烈なのは個人攻撃。(これは部活のお母さんたちの噂通り)

・A君。授業でこの個人攻撃が始まるのが耐えられない。ターゲットが誰であれ、とても厭な気分になると親御さんに普段から漏らしていた。

・ある日授業中、A君はついにターゲットにされる。こんなこともわからんのかと延々と罵られる。A君は家に帰ると何かわめきながら部屋に閉じこもってしまった。ごはんも食べない。お風呂にも入らない。もちろん学校へも行けない。部屋で暴れる音がする。ご両親はどんなに心配だったことか。このまま自殺してしまうのではないかと不安のどん底に突き落とされることもあったという。

・親御さんは学校にも教育委員会にも相談したが、埒があかない。教師のせいではない、本人の問題だというような展開になったらしい。(これはのちにわたくしが教育委員会に確認したところ、「原因が何かはわからない」とのこと)

・A君県外の私学に転校。住所が変わっていないと市内の他の公立中学へは転校させてもらえない制度なのだ。転校の手続きに入る際に校長が、「本当にいいんですか、もし私学へ行ってそこでもだめだ、ということになっても、もううちの中学には戻れませんからね。大丈夫ですか」と念を押したという。

 

わたしは愕然としたんだよ。もうちょっと気楽に考えてた。

 

何考えてるか訳わからんうちのグソクにだって、いつ起きてもおかしくはない出来事だ。うちの子は大丈夫だし、なんて思う親はきっと自分の子どものことを理解しなさ過ぎだと思う。

たいがいの中学生なんて年頃の人々は、ものごとの善悪を自ら判断するには人生の経験値が圧倒的に低過ぎる。教えられた善悪をなぞるのがせいぜいだ。けれどそろそろ体験のなかから、自らの内に生じる善悪の原型のような何かしらを感じ始めている頃ではある。まあ、自我みたいなやつね。自らに生じるそのもやもやと、外部から押しつけられるぱっきり鮮明な善悪がかみ合わずにいる頃だと思うんだよね。すごく脆い。

見た目は成長して強くなってるかのようだけど、内面はものすごく不安定な時期の筈。だから、何があってもおかしくないとわたしは思っている。

なんで善悪なんかを話にもちだしたかというと、彼らは日常的に「いい」「いけない」をがんがんと指示されていて、そこんとこでもがいてるように見えるからなんだが、それはここの地域だけのことかもしれない。

別に善悪じゃなくてもいい。例えば中学生の自殺についてわたしが考えるのは、彼らにとって生と死の距離感が曖昧なんじゃないか、ということである。いじめがあったのではない、家庭にもこれといった問題はなかった、原因がわからない、けど自殺した中学生、っていうのがわたしが中学生の頃にいくつかあって、中学生のわたしにとっては「死」が必要以上に無闇矢鱈に恐ろしい遥か彼方のできごとだったから、長くそれについて考えていた。いつの時代にもその手の中学生の自殺がある。これだけ歳とって気づいたのは、中学生にとって生と死の距離感が、人生の経験値の圧倒的な低さによって曖昧になっているんじゃないか、ということなのだ。曖昧だったからわたしの場合は、「死」がめちゃくちゃ怖かった。でも逆に「死」が大して遠くもないものだと感じている子にとっては、それまでに「命を大切にしよう。生きよう。死ぬな」と杓子定規に教えられてきたことを、ひょいっと何気なくひっくり返してしまう。そういう危うさが、中学生にはあるように、わたしは思っている。

 

まあとにかくだ。A君に起きたことがらは、いつ誰がそうなっても不思議ではないとわたしは思う。つまりA君が特別なのではなく、教師あるいは学校が特別なのだ。もしくは教育が。社会が。

実際、この教師のせいで不登校になった生徒はほかにも複数いるというのも、あとになってわかりました。ただ教育委員会が言っていたように、また全国のいじめ問題のなかでも頻繁に取り沙汰されるように、何が原因の不登校かを公に示すのは非常に困難、一般的にはほぼ不可能なのが現状ですね。誰かが死んでやっと調査に動き出せたらまだいいほう、というのが現代日本の現状だとはその後知りました。

 

A君のお母様は、もしA君が自殺するようなことになったら包丁持ってその教師を刺しに行く、と真剣に考えたそうです。

 

そのような公立中学に息子は通っています。

13 俺は全体主義者だ

ここでひとつ、別の話を。

 

1999年にアメリカで「コロンバイン高校銃乱射事件」が起きた。

何にしろ、高校に銃を持った生徒(或いは元生徒だったか)がやってきてがんがん乱射して少なくない数の人が亡くなった事件だ。ったと思う。

 

わたしが驚いたのは、あの日テレビを見ていて(確かNHKニュースだった)そこに映し出された映像だ。

犯人は、ナチスを彷彿とさせる反社会的なある音楽グループ(もしくは歌手)のファンで、よくその歌を聞いていたということです(実際はそうでなかったらしいじゃんね)、みたいなアナウンサーの台詞のあとに出てきた映像、ハーケンクロイツ風の文様やらミリタリックなコスチュームで歌う若者、その歌詞の字幕が

「俺は全体主義者だ」

というものだった。この字幕にびっくり。

この字幕をこれ見よがしに出すテレビ局にびっくり。

 

だってさあ、アメリカではいざ知らず日本ではさ、

全体主義って

ちっとも、全然、まーったく、悪いことじゃない。んだもん。

全体主義、おういいね、良い事だ、立派なもんである、ってみんな思ってるもん。わたし知ってる。みんな、って、大変に多くの人々が、というほどの意味だけど。

日本で「全体主義」を独裁国家とか権力の乱用とかにすっと結びつけられるのは、本当にごく一握りの人々だと思います。この単語が固有名詞寄りな一般名詞だと認識しない人が圧倒的多数だと思うし、純粋な一般名詞として、全体で何かを成し遂げることは素晴らしい、全体で志をひとつにすることは素晴らしい、と好意的に解釈する人はかなり多いと思う。統計とった訳じゃないけどさ。国民の過半数は超えると思う、少なくとも「全体主義は悪いことじゃない」と感じている人は。

となると、日本において、このパンクな歌手が(これには感心したんだが、流れてきたのは久しく聞くことのなかった古風な「パンク」音楽だった)意図する「まあ何て反社会的ないかれた危険な人物なの」という印象は報道からはちっとも発信されず、「おや変な恰好してるがなかなか頼もしい好青年ではないか」と解釈されちゃうじゃないの。何のかんの言ってやる時にはきちっとやる奴なんだな、とか。

 

間抜けな報道。とわたくしは呆れた。

日本人の「全体好き」の脅威を知らないな。

何で日本人は「全体」が好きなのか、いろんな理由はつけられると思いますが、わたしが一番の原因に挙げるのは、教育です。

 

ひとりがランニングの手を抜いたことを部員全員で謝る、のがまさに全体主義だよね。

息子が学校からもらってきた学級通信の、ひとりの生徒が合唱コンクールに関して書いた心構えの文章には、4行のうちに4回「全体」が出てくる。

「全体」は大切なことだと自然に思わせるまで、教育が行き届いている訳だ。

 

教える側は、そこに疑問や違和感を持たないのか。持っていてもそれを押し殺さねばならない事情があるのか。

はたまた、教える側もまた「全体」に縛られて独自の発想ができないのか。そうだとしたら、教えられた者もそのまま「全体」に縛られていって、そのうち教える側に回り、それに教えられる子どもは……、って教育の連鎖だよね。もしかして江戸時代あたりから繋がっているのかな。

怖いね。